活力ある緑と文化のまち板橋

城北支会 甲方 秀一

(RMC_2001年7月_No.238_P1〜P2_城北支会_甲方_秀一会員の記事から転載)


【歴史の変遷】
 武蔵野台地に人類の生活が始まったのは、約3万年前だといわれる。この台地の東北端に位置する板橋地方では石神井川流域や荒川谷の支谷に、この時代(旧石器時代)の遺跡が点在する。なかでも、「茂呂形ナイフ」に代表される茂呂遺跡は、約1万7千年前にさかのぼるといわれ、旧石器時代を代表する遺跡のひとつである。
 鎌倉時代から室町時代にかけてこの地方の領主であった豊島氏は、文明9年(1477年)、長尾景春の反乱に加担したため、上杉家の家臣大田道灌によって石神井城、平塚城を落とされるまで、支配勢力を振るった。
 徳川家が覇権を握ったあと、慶長9年(1604年)江戸幕府は街道を整備し、一里塚に宿場を設けて交通の便を図った。当区内には平尾、志村の一里塚が築造され、板橋宿が設けられた。板橋宿は、品川宿、千住宿、内蔵新宿とともに江戸4宿のひとつとして、江戸に入る最後の宿場でもあれば、江戸を出る初めの宿場でもあるため、寛永12年(1635年)、諸大名に参勤交代が敷かれるにおよんで、かつてない繁栄をみせた。
 維新後、江戸は東京となって、武蔵県所属となり、その後変遷を経て、昭和7年10月、東京市に編入し、板橋区が誕生した。
 戦時中、板橋区は宿場をはずれれば山林と荒野の連続で、氾濫の心配のある荒川の流域に住宅が少なかったため、敷地入手の容易さ、製品輸送に舟運を利用しうる利便性から、軍需工場、爆発性の化学品の製造工場設置に好適の地形と条件を提供しており、板橋6丁目から北区にかけて陸軍造兵廠、板橋火薬製造所等の軍事関係の工場が建設され、一大軍事工場地帯となった。
 終戦を境として軍需中心の当区の工業は一斉に火を消したが、戦後の目覚しい復興は近代産業興隆の立地条件に適した荒川治岸、志村、前野町など瞬く間に地域随一の工業地帯を作り上げ、飛躍を続けてきた。


【位置・面積・人口】
 板橋区は、東京23区(特別区)の中で北西部に位置しており、南東から北西に長く、最長部は9.5q、最短部は3.5qである。当区の総面積32.17km2であり、東京都の総面積の約1.5%、区部の総面積621.42km2に対しては約5.2%に当り、23区中9番目の大きさである。  当区の人口は平成13年1月1日現在、49万9,422人で世帯数23万9,073世帯である。当区の発足当時、人口は12万168人であり、戦中の軍需工場の集中、戦後の復興と高度成長期を通して昭和40年まで増加の一途をたどった。その後、人口は微増傾向にあったが、平成5年から若干の減少または横ばい傾向に転じて現在に至る。


【産業】
 板橋区の事業所数は23,608、従業者数は193,751人(平成11年事業所・企業統計)であり、東京都全体でそれぞれ約3.3%、約2.5%を占める。当区の産業の特色は製造業の比率が高い(事業所数で16%、従業者数で24%)ことである。商業・サービス業など第3次産業の集積は、23区平均の水準に達していないものの、地域に根ざした活発な活動を続けている。

〈工業〉
 当区の工業は、工場数3,349、従業員数39,361人、出荷額9,168億円の規模(平成10年東京都総務局統計部「東京の工業」)である。
 業種別では、工場数で見ると出版・印刷が最も多く27.7%で、以下一般機械、金属製品、精密機械と続いている。東京都区別においては、就業者数と出荷額とがそれぞれ第2位、第3位を占めるなど、東京の代表的な工業集積といえる。しかし、区内の工場数は昭和53年をピークに減少傾向にあり、特に平成2年から7年にかけては17%と大きく減少している。


〈商業〉
 当区の商店数は5,809、従業員数は36,316人、年間販売額1兆3537億円の規模(平成9年東京都総務局統計部「商業統計調査報告書」)で、そのうち商店の78%、従業者の59%は小売業者である。23区での小売業中業者は商業全体の63%なので、当区は小売業の割合が高いことが特徴となっている。
 当区の商業は、戦後人口が増大するにつれてその規模を拡大していったので、業種構成は食料品、日用品といった最寄品中心となっている。

〈板橋のいわれ〉
 板橋の地名が書物に登場してくるのは古く、軍記物で有名な「源平盛衰記」や「義経記」によれば、治承4年(1180)には頼朝や義経が「板橋」の地に陣をとったことが記されている。今から800年前には「板橋」の地名が既に使われていたようである。


 しかし、地名発祥のゆらいについては、はっきりとした資料はなく、おそらく石神井川に架けられた「板の橋」が当時としては珍しく、いつしか口から口へと語り伝えられ、道中の目安となったといわれている。江戸時代になると、中山道の宿場名に使用され、江戸四宿(新宿、品川、千住、板橋)の一つとして世に知られ、明治以降町名として採用され、昭和7年区誕生のとき区名となった
〈区の花 ニリンソウ〉

 キンポウゲ科の多年草で、雑木林などの緑陰に多く見られ、春15cmほどの草丈に、白いかれんな花を二輪咲かせる。